今日は朝から学校サボって映画観てきたよ。
以下、映画『グリーンゾーン』のネタバレ含みます。
映画自体の出来はよかった。とりあえず教訓として、観るならCMやってるやつにしろってことを学んだな。やってないやつみんながダメだっていうわけじゃあないが、リスクが大きいよ、と。
あまりだらだらつづるのはどうかと思うので、さっとまとめあげようと思います。
いわゆる911テロに始まったイラク戦争を描いた映画だった。
ロイ・ミラー率いるMET隊は、大量破壊兵器の隠された倉庫があるという情報のもと出動したが、そこは何もないただの廃工場だった。作戦の失敗はこれで3度目であり、ミラーは情報に誤りがあるのではないかと主張したのだが、上官はそれを無視しようとする。
納得できないままの次の作戦の途上、第一次湾岸戦争を経験したイラク人フレディの情報提供をきっかけに、断片的な情報が段々と繋がっていく。アメリカ政府の高官パウンドストーンの妨害に合いながらも、戦争の原因たる情報の提供者「Magellan(マジェラン)」に同じく怪しさを感じるCIA捜査官や記者を味方につけて 最終的に得られた結論とは、「大量破壊兵器は存在しない」であった。
以上があらすじ。ウィキペディアより引用。
事実をもとに書かれた脚本なんだろうね。
問題なのは、これがエンターテイメント性豊かなアクション映画になってしまっていることだとおもう。
戦争を描くだけあって、内容は重い話だ。作中に登場するイラク人が「イラクのことはイラク人がきめるべきだ」というように、重いメッセージが込められている。
が、あまりにもアクション映画なのだ。疑いを持った主人公の、後先考えない行動。現実にこんな行動を起こしたら間違いなく処罰されると批判する批評家もいるようだ。そこは映画なんだから、と言ってしまったらこの映画がただのアクション映画だとしてしまうということだ。
さらに、手に汗握る銃撃戦。迫真で、刺激的で、リアリティがある(ように感じられる)――娯楽、エンターテイメントになってしまっている。
さて、なぜ僕は娯楽性に対してケチをつけるかお話ししよう。『現実が消費されている』からだ。
この表現は元々辻村深月さんの著書のなかの表現で、現実が娯楽として消費されているという意味だ。
例を挙げると、残虐極まりない殺人事件が起こったとする。マスコミはそれを大々的に放送する。事件に関する特番を組む。コメンテーターは偉そうに犯人を怪物と定義する。報道を聴いた一般市民は事件を嘆く。ころされた人がカワイソウ。犯人はユルセナイ。
だが、それで終わりだ。一般市民の一瞬の感傷の波になっておしまい。マスコミが報道をやめたりすれば事件のことなど無意識に投げ捨てる。
これが、現実の消費。現実が娯楽になってきえていく(影響されすぎだろ厨二病乙wwwと思うひとはまぁその診断結果は受け入れるけど、辻村さんが言うようなことは前々から少し考えていた。それが明確な言葉になって提示されたから飛びついただけのことだ)。
話を戻すと、イラク戦争という、当人たちにとっては間違いなく重大なことをアクション映画のネタにしてしまってもいいのかという話だ。イラクの実情を知らしめたいという気持ちがあるのだろうことはわかるが、やり方が違うと思う。
反戦を訴えたいのなら別の形もあったんじゃないのだろうか。話題になった『アバター』だって反戦反米メッセージが込められていると聞いた。
ついでに言うと、アメリカ人が上から目線にあるようにしか思えない。
イラク戦争はアメリカがふっかけた戦争だ。でもってアメリカ人がイラク人に映画の中で自由の主張をさせる。そりゃ戦争ふっかけた人々と映画を作った人々は違うだろう。
でも、映画を作った人々は「俺達が代弁者なんだ」と胸を張っているように思える。代弁する必要があると思ってる時点で思いあがりだというのは表現の過剰だろうか?
まあ現実の消費の問題って難しいよね。どーにもならないだろうし。
はい、一日一曲のコーナー。
本日もthe pillows、曲目は『バビロン 天使の詩』。おれの心のテーマソングです。
曲はめっちゃかっこいいのだけれど、PVは日本一ダサいPVっつータグつけられてたなあww まあこれがいい味だしてるのだけれどww そんなことより、とにかくきいてみんさい。
良い曲です。ではおやすみまたあした。
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